遠き祖国 1
Far from My Fatherland 1


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 このページは、以前に三脚檣掲示板で連載した「遠き祖国」のイラストページに、短縮した本文を加えたものです。割愛したのは主にフィクション部分ですので、全体としては史実に沿っています。

 ここでは第一次世界大戦の勃発時、極東にあったシュペー提督率いるドイツ海軍東洋艦隊が、圧倒的に優勢な連合軍の追及を逃れ、南米チリ沖でイギリスの装甲巡洋艦艦隊を破り、翌月にイギリス巡洋戦艦隊に捕まって、ほぼ全滅するまでの戦いを描いています。

 当時のドイツ海軍正式名称では、大型の装甲巡洋艦を「大型巡洋艦」と呼んでおり、いわゆる巡洋戦艦もこの範疇に含まれます。巡洋戦艦はイギリスでは「戦闘巡洋艦」であって、やはり大型で強力な巡洋艦という位置付けです。"battle-cruiser"を日本語訳した「巡洋戦艦」は、航洋力の大きな戦艦というイメージになるので、少々ニュアンスが異なるのですが、ここでは慣例に従い、それぞれ巡洋戦艦、装甲巡洋艦という名称を用いています。
 軽巡洋艦もドイツでは小型巡洋艦ですが、やはり一般的な軽巡洋艦の語を用いています。




Vice-Admiral_Spee

ドイツ東洋艦隊司令長官マキシミリアン・フォン・シュペー伯爵

 1861年、コペンハーゲンに生まれる。1878年、ドイツ海軍に加わる。1910年、少将に昇進



 第一次世界大戦勃発から40日ほど前の1914年6月24日に、ドイツ東洋艦隊旗艦『シャルンホルスト』は、中国にあったドイツの租借地、チンタオ (青島) の埠頭を離れた。東洋艦隊はこの先、太平洋を一巡して訓練を兼ねたショウイング・ザ・フラッグの航海を行うことになっている。
 すでに僚艦『グナイゼナウ』は4日前にチンタオを離れ、日本の長崎へ向かっている。2隻は2週間後の7月7日にカロリン諸島のトラック島で合流する予定だ。

 このときのドイツ東洋艦隊の外洋戦力には、ほかに軽巡洋艦『ライプチヒ』、『エムデン』、『ニュルンベルク』があり、『ライプチヒ』は、半年前からアメリカ西海岸を巡航している『ニュルンベルク』と交代するべくアメリカへ向かっていて、『エムデン』はチンタオに残る留守居役である。
 艦隊には貨物船『チタニア』が随伴し、各種の補給品を準備しているが、燃料の石炭は、行く先々に先回りして補給船が手配されていた。南太平洋に点在する島々は、この頃ドイツの信託統治領とされていて、各所に通信施設があり、チンタオの通信圏を離れた後は、これと海底電線で結ばれたヤップ島の通信所が、連絡を引き継ぐことになっている。

 その航海途上、ドイツ東洋艦隊司令長官であるシュペー提督は、6月末にセルビアでオーストリア皇太子夫妻が暗殺されたという知らせを受け取った。艦隊首脳は戦争が始まる可能性を大きなものと受け止め、シュペー提督は状況の分析と対策を検討する。
 チンタオの基地はそれなりに強固な防衛力を持っているけれども、艦隊同様、戦争の相手が誰になるかで危険度は大きく変わり、それぞれに対策を考えなければならない。また艦隊の整備基地としては、ドックがあるだけで造修施設には実力がなく、長期にわたって艦隊を維持するのは難しいだろう。太平洋、インド洋海域にチンタオの外には、ドイツ軍艦が身を寄せられるような保護地は存在しない。

 当時西太平洋の海上戦力は、敵対が確実視されるフランスとロシア、かなり危険なイギリスと日本、中立を期待できるアメリカがそれぞれに保持しており、同盟するだろうオーストリアにはわずかな戦力しかなかった。
 フランスの艦隊はドイツのそれに近いが、配備されている艦は旧式で実力的には劣るだろう。ロシアはさらに弱体である。イギリスの艦隊には有力艦があり、新型の装甲巡洋艦『マイノトー』、旧式ながら戦艦である『トライアンフ』は強敵になり得るし、小型艦も含めた絶対数は圧倒的だ。

 イギリスが参戦すれば、その実力と地理的条件から、ドイツ東洋艦隊の本国帰還は望み薄となる。しかし、東洋にいる装甲巡洋艦は拮抗した実力でしかなく、艦隊が広大な太平洋上にある限り旧式戦艦は役に立たないので、絶望するような状況にはならない。アメリカには当面動く理由が見つからず、最も大きな脅威は日本海軍だった。日英同盟の存在は重大な問題である。
 日本海軍の戦力は強大であり、2隻の装甲巡洋艦で対抗できるようなものではない。ほんの10年も経っていない日本海海戦で圧倒的な勝利を収めた艦隊は、その後も着実に新戦力を増強している。特に完成したばかりの新型巡洋戦艦『金剛』は、それとの戦闘など考えられないほどに卓越した実力を持っている。
 『シャルンホルスト』と『グナイゼナウ』は、それぞれ片舷に21センチ砲6門を指向できるけれども、2隻12門の斉射弾量1,296キログラムは、『金剛』の36センチ砲弾2発分でしかない。『金剛』は、それを8門も振り向けられるのだ。速力も5ノットほど速く、水平線に姿を見たら最後、間違いなく叩き潰される。




SMS_Scharnhorst

ドイツ装甲巡洋艦『シャルンホルスト』

 1906年3月22日進水、12781トン、21センチ砲8門、15センチ砲6門、23.5ノット



 7月15日、トラック島を出た艦隊は『チタニア』を伴い、カロリン諸島東部のポナペ島へ移動した。
 海軍軍令部は7月25日以降、巡洋艦隊に対して国際情勢を次のように知らせてきている。
「オーストリア=ハンガリー帝国は7月23日、セルビアに対して最後通牒を発した。ポナペ島にて情勢を待て」
「オーストリア、セルビア間の外交関係は断絶した。ロシアはセルビアに好意を見せている。サモアへの巡航は中止されるものと考えよ。ヤップ島付近において後報を待つこと。『ニュルンベルク』にはチンタオ回航を命じた。それ以外は貴下に一任する」

 これに対しシュペーは、7月27日にホノルルへ入った『ニュルンベルク』のチンタオ回航に同意しなかった。そのまま進めば横浜到着は8月9日頃となり、3400浬の航程を経た後であるから石炭の残量は少なく、状況に応じた任意の行動が取れなくなる可能性が高い。ホノルルからポナペへは2750浬で、ここには十分な石炭の貯蔵があるから、はるかに安全と言える。シュペーは『ニュルンベルク』をポナペへ直航させた。
 7月30日、情勢はますます不穏となり、その夜、ついに堪忍袋が裂ける。
「オーストリア、セルビア間に戦争勃発す」
 誰もが、せいぜい癇癪玉の破裂くらいにしか受け止めていなかったこの爆発音はしかし、数年にわたって開け放しとなった、地獄の蓋の開く音だったのである。

 7月31日のシュペー提督の戦時日誌には、7日から27日に至る状況判断が記されており、そこでは戦争の可能性を三段階に分けて考察し、それぞれへの対応が研究されている。
 まず、イギリス、日本が参戦しない、対ロシア、フランスのみの戦争の場合、すでに策定された作戦計画に基づき、攻勢をとることができる。両国の在東アジア艦隊だけを脅威とするならば、艦隊は十分に対処可能である。全力同士の衝突でも勝算は高い。チンタオは安泰であり、どちらにもこれを落とすほどの戦力は用意できない。フランスからは遠すぎるし、ロシアがこんなところで陸軍を動かすなど、日本が承諾するはずがない。
 日本がイギリスとともに参戦した場合には、チンタオの基地は維持不可能であり、艦隊も西部太平洋で行動できなくなる。西太平洋、東アジアの各拠点については、これを放棄せざるを得ない。問題はイギリスが敵対し、日本が中立を維持した場合だが、日本が仮に参戦しなくても非好意的な態度をとる場合、燃料の供給路が絶たれ、作戦の長期継続は困難になる。
 これらのことから、シュペーは最悪のシナリオに沿うべきと考え、以後の行動を計画した。

「艦隊は分散して各所における通商に脅威を与えるべきだが、装甲巡洋艦はなるべく長期間にわたって存在を隠蔽し、敵に遭遇を予期させて負担をかけるのが重要な役割になる。イギリスが敵対し、日本が外交に条件を付けてきた場合、艦隊はアメリカ合衆国西海岸へ向かうのが最も得策だろう。この地方では石炭の入手が期待でき、最も長期間の行動が可能と考えられる。これに対し、オランダ領インドシナからの石炭供給に頼るしかないインド洋での行動は、はるかに不安が大きい。敵艦隊との戦闘は、ドイツ側が優勢な場合にのみ実施可能である」
 互角の戦闘では、まず間違いなく手負いが発生し、巡洋艦隊にはこれの修理を行える見込みがない。仮に敵を打ち破れても自らが大きく傷つけば、結局は傷者を切り捨てるしかなくなり、一度失われた艦隊の力が回復する可能性はどこにもない。




SMS_Gneisenau

ドイツ装甲巡洋艦『グナイゼナウ』

 1906年6月14日進水、『シャルンホルスト』と同型
 21センチ砲は艦首尾に連装砲塔、上部の砲廓に左右2門ずつを装備していた。片舷砲力は最大6門である。
下部砲廓には15センチ砲が片舷3門ずつ配置されていた。



 ドイツ東洋艦隊にとって、最も大きな脅威は日本海軍であり、それに続くのがイギリスの巡洋戦艦『オーストラリア』である。装甲巡洋艦にとって巡洋戦艦は別格の存在で、被捕捉すなわち終焉を意味する。
 その一方で、広い大洋へ出てしまえば、艦隊は容易に捕捉されず、分散した小戦力では対処できないから、敵の海上交通には大きな脅威となり、対応する海軍に非常な負担をかけることができる。しかし、移動し続ける艦隊には燃料供給の問題があり、これの確実な供給源は、太平洋、インド洋ともに見いだし得ない。その必要量はいかほどであろうか。

 装甲巡洋艦『シャルンホルスト』と『グナイゼナウ』は、巡航10ノットで毎日93トンの石炭を消費する。ざっと2,000トンの、満載を超えた限界的搭載量では、21日半、5,166浬を移動できる計算になる。これが20ノットでは、一日あたり432トンの消費となり、わずか4日半で炭庫は空になってしまうのだ。全速力ともなれば、さらに航行可能時間は短くなる。
 軽巡洋艦は、艦が小さいだけずっと有利ではあるのだが、当然に積み得る石炭も少ない。『ライプチヒ』は822トンしか積めず、10ノットでの消費量は1日あたり40トンだが、やはり20日半ほどで使い切る。『ニュルンベルク』は850トンを積むものの、一日45トンを消費し、行動日数は19日に満たない。新型の『エムデン』は高出力の機関を装備しており、速力は速いのだが、それだけ燃料消費も大きい。

 またこれらの各艦は、最後に入渠して船体を清掃し、機関を整備してからの日数に差があるため、それぞれ最良の状態からの低下に程度の違いがある。主力は整備を終えたばかりだが、『ニュルンベルク』の状態には期待できない。いずれにせよ、艦隊が行動するだけで、一日350トンは石炭を灰にしてしまうのだ。一ヶ月で1万トンである。
 さらに戦闘を行った場合、人員の補充や損害の復旧が困難なのは言うまでもないが、消費した砲弾の補給もままならないのだ。大きな戦闘をしてしまえば、仮に損害がなくても、数十パーセントのレベルで砲弾は使われてしまうだろう。特に主力の21センチ砲弾は、ほとんど積んであるだけと考えるしかない。魚雷の補充もできない。

 8月2日、艦隊は動員令を受け取る。同日夜、「ロシアに対する敵対行動が開始された。フランスとの開戦もまた確実だが、敵対行動は8月3日より開始すべし。イギリスは敵対する見込み。イタリアは当面中立を維持する」との連絡を受けた。
 8月3日夜、「イギリスの敵対行動を予期すべし」
 8月4日午後、フランスへの宣戦布告が報じられる。
 8月5日午後、「イギリスはドイツに対し、8月4日に宣戦を布告した」
 開戦を受けて、『チタニア』は非武装の貨物船ではあるものの、ドイツ海軍の仮装巡洋艦として軍艦旗を掲げることになった。これは随時同伴する速力の遅い石炭船を指揮、監督させるためである。
 8月6日早朝、『ニュルンベルク』はポナペに到着し、石炭を補給した。もし横浜へ向かっていたら、そのまま抑留されていたかもしれない。この艦にはシュペー提督の長男であるオットーが乗務している。

 8月4日、開戦時にチンタオへ閉じ込められない目的で黄海へ出ていた『エムデン』は、対馬沖でロシアの郵便貨物船『リャザン』を捕獲し、これをチンタオへ連れ帰ると旧式艦『コルモラン』から外した武器を装備させ、名前も『コルモラン』と改名して、ドイツ軍艦旗を掲げさせた。
 8月6日にポナペを離れた艦隊は、太平洋をチンタオへ戻る方角へ進み、11日にパガンへ到着する。泊地にはすでにドイツ船が集結しつつあり、その数は9隻にもなった。
 翌12日には、チンタオを離れた『エムデン』が合流してくる。




SMS_Nurnberg

ドイツ軽巡洋艦『ニュルンベルク』

 1906年8月29日進水、3469トン、10.5センチ砲10門、23ノット
 10.5センチ砲は、各所に左右並列に装備されている。



 さて、この頃のいわゆる連合国側の艦隊配備は、どんなものだったのだろうか。東アジアに有力な艦隊を持っていたのは、イギリス、フランス、ロシアであるが、主力はイギリス艦隊である。その構成を見てみよう。なお、データはそれぞれの完成時のもので、開戦時の実態を表してはいない。

イギリス中国艦隊 China Squadron
司令長官:ジェラム中将 Sir T. H. M. Jerram
警備区域:シンガポール以東において幹線航路の通過する各狭海面、これらの狭海面内の局地通商および積み替え貿易、ならびにマレー群島北部海面…チンタオはここに含まれる。

戦力:
旧式戦艦×1:
『トライアンフ』 Triumph (1904年就役、11985トン、10インチ (254ミリ) 砲4門、7.5インチ (190ミリ) 砲12門、19ノット)
装甲巡洋艦×2:
『マイノトー』 Minotaur (1908年就役、14600トン、9.2インチ (234ミリ) 砲4門、7.5インチ砲10門、23ノット)
『ハンプシャー』 Hampshire (1905年就役、10850トン、7.5インチ砲4門、6インチ (152ミリ) 砲6門、22ノット)
軽巡洋艦×2:
『ニューカースル』 Newcastle (1910年就役、4800トン、6インチ砲2門、4インチ (102ミリ) 砲10門、25ノット)
『ヤーマス』 Yarmouth (1911年就役、5250トン、6インチ砲8門、25ノット)
駆逐艦×8、スループ、河用砲艦多数

 必要に応じ、少々古いけれども、ロシア巡洋艦『アスコルド』 (1901年就役、5905トン、6インチ砲12門、23.8ノット)、『ゼムチューグ』 (1904年就役、3103トン、12センチ砲6門、24ノット)の援助が期待でき、カナダ太平洋鉄道会社のバンクーバー〜香港路線客船エンプレス級を補助巡洋艦としうる。
 フランス東洋艦隊は、『モンカルム』 Montcalm (1902年就役、9177トン、193ミリ砲2門、163ミリ砲8門、21ノット) と、『デュプレ』 Dupleix (1903年就役、7432トン、163ミリ砲8門、21ノット) の装甲巡洋艦2隻、水雷巡洋艦1隻、駆逐艦3隻だが、彼らはこれで、次に挙げるオーストラリア艦隊の管轄範囲もカバーしようとしていた。




HMS_Minotaur

イギリス装甲巡洋艦『マイノトー』

 1906年6月6日進水、14600トン、9.2インチ砲4門、7.5インチ砲10門、23ノット
 『ディフェンス』は本艦と同型。写真帖のページにある『シャノン』も同型である。



オーストラリア艦隊 Australian Fleet
司令長官:パティ中将 Sir George E. Patey
警備区域:中国艦隊警備区の南方で、オーストラリアの通商、マレー群島南部海面、ならびに西部太平洋の海運保護

戦力:
巡洋戦艦×1:
『オーストラリア』 Australia (1913年就役、18500トン、12インチ (305ミリ) 砲8門、25ノット)
軽巡洋艦×2:
『メルボルン』 Melbourne (1913年就役、5400トン、6インチ砲8門、25.5ノット)
『シドニー』 Sydney (『メルボルン』に同じ)
旧式軽巡×2:
『エンカウンター』 Encounter (1905年就役、5880トン、6インチ砲11門、21ノット)
『パイオニア』 Pioneer (1900年就役、2135トン、4インチ砲8門、20ノット)

 マーシャル大佐 H. J. T. Marshall を司令官とするニュー・ジーランド戦隊 New Zealand Division の旧式軽巡『サイキ』 Psyche (1900年就役、2135トン、4インチ砲8門、20ノット)、『ピラムス』 Pyramus (『サイキ』に同じ)、『フィロメル』 Philomel (1891年就役、2575トン、4.7インチ (120ミリ) 砲8門、19ノット) も、この地域内にある。

 この他に東インド艦隊、喜望峰艦隊があり、カナダ太平洋岸バンクーバーに隣接した海軍基地エスカイモルトには、旧式軽巡洋艦『レインボウ』 Rainbow (1892年就役、3600トン、6インチ砲2門、4.7インチ砲6門、19.75ノット) が配備されていた。これらのうち中国艦隊とオーストラリア艦隊を合計するだけでも、ドイツ東洋艦隊よりはるかに大きな戦力となるのだが、守勢に立った場合、守るべき存在との兼ね合いで、その糾合は容易なことではなかった。

 また、これらをすべて合算したよりも、日本海軍の戦力ははるかに強大であり、桁の違う規模を持っていた。当時存在していた戦力としては、最新型戦艦が『河内』型2隻、『薩摩』、『香取』型戦艦各2隻、日露戦争での捕獲艦を含む前ド級戦艦群、『鞍馬』、『筑波』型を含む多数の装甲巡洋艦が居並び、最大の脅威として巡洋戦艦『金剛』があって、『比叡』が完成したばかりだった。
 ドイツ艦隊については、紹介する写真に簡単な要目を書き添えておくので参照してほしい。オーストリア艦隊の戦力は小さく、チンタオにかなり旧式な装甲巡洋艦『カイゼリン・エリザベート』がいただけだった。




HMAS_Australia

イギリス巡洋戦艦『オーストラリア』

 1911年10月25日進水、18500トン、12インチ砲8門、25ノット



 8月12日夜、ヤップ島の通信所がイギリス軍の攻撃を受け、沈黙した。シュペーは各艦長を集め、以後の行動について会議を行う。
「当面、最大の問題は日本の動向だ。現在は中立を保っているけれども、彼らが敵側に加わったのでは、太平洋の西半分に安全な場所はなくなる。次の問題は、この戦争がいつまで続くかだ。8週間と言う者もあれば、クリスマスまでかかると言う者もいる。簡単に予測できることではないが、長く続くという観測をしても、あまり意味はない」
 長く続くとすれば、東洋艦隊が本国へ帰還する道は、その最後の部分が閉ざされたままと考えるしかない。本国艦隊がよほどの犠牲を覚悟した大作戦を実施しない限り、この艦隊が北海へ入れる可能性はない。

 それに、仮に本国へ無事帰還したとしても、北海で対峙しているド級戦艦、巡洋戦艦の戦力と対比すれば、東洋艦隊を構成する艦は戦列に加われるものではなく、せいぜい後方の予備戦力が増えるだけだ。つまり、帰還しても精神的な利益以上のものはないのであり、大きな危険を冒してまで試みる意味があるかどうか、はなはだ疑問なのである。
 その一方、太平洋に留まっても、燃料の補給が受け続けられるとは思えない。様々な理由から、艦隊が戦闘態勢を維持したままでいられるはずもない。弾薬は減るばかりで、機械は消耗するし、交換部品の入手は考えられないのだから、結局は行動不能となり、敵に撃滅されなくても、どこかの中立国港で抑留される結果になるだろう。




SMS_Emden

ドイツ軽巡洋艦『エムデン』

 1908年5月26日進水、3664トン、10.5センチ砲10門、23.5ノット



 幸い、長期巡航の準備によって石炭の手配は先行しており、そのすべては入手できないにしても、相当量が確保されている。これがもし、準備なしにチンタオから逃げ出したような状況だったら、日付変更線を越えることすら困難だったに違いない。結局はチンタオへ逃げ帰るか、ひとつずつ潰されていく島拠点のどこかで、圧倒的な敵に捕捉されるかだ。有力な敵に追跡されれば、洋上で燃料切れにもなりかねない。
「年内に戦争が終わるという見通しを持つならば、東洋艦隊は太平洋に居続けることが可能だ。イギリスの中国艦隊は基本的にアジアを離れないだろうから、アメリカが中立を維持する限り、太平洋の東半分はおおよそ安全地帯になる。カナダの太平洋岸には、有力な艦はいない」
 ここで『エムデン』のミューラー艦長は、全戦力が東太平洋へ移動するのではなく、一部が残ることで連合軍の艦隊配備を牽制し、追跡を遅らせうると進言した。その結果、『エムデン』はアジア、インド洋方面に残り、敵を足止めするとともに大きな活躍を見せ、ドイツ海軍の歴史に輝かしいページを加えることになったのだが、ここでは『エムデン』の航跡を追うのが目的ではないので、この物語は他日に譲ることとしよう。




French_Dupetit-Thouars

フランス装甲巡洋艦『デュプティ・トワール』

 『モンカルム』の同型艦…手頃な写真がないので代用
 1900年3月進水、9177トン、193ミリ砲2門、163ミリ砲8門、21ノット



 艦隊はパガンを離れ、針路を東南東に取って、ポナペの東にあるエニウェトク環礁へと向かう。『ニュルンベルク』が安全確認のため艦隊に先行し、8月19日、艦隊はエニウェトクに到着した。シュペーはここで『ニュルンベルク』をハワイへ派遣して、本国との連絡を取らせるとともに、石炭の手配と会合点の情報を持たせることにする。
 この時点で、連合国側はドイツ東洋艦隊を見失っているから、捜索艦隊を編成するまでは要所の警備に当たっているだけだろう。動員された軍隊を運ぶ輸送船団には、十分以上の護衛が張り付けられるに違いない。そうなればイギリスの中国艦隊には、捜索艦隊を編成できるだけの余力はない。

 注意すべきはオーストラリアの艦隊であり、特に巡洋戦艦『オーストラリア』は、危険極まりない存在である。その30.5センチ砲8門の攻撃力は、広い海面で撃ち合うにはハンデが大きすぎる。『金剛』ほどではないにせよ、斉射弾量は装甲巡洋艦2隻の2倍以上にもなるし、速力も速いのだ。
 8月26日、艦隊はさらに東へ進み、マーシャル群島内のマジュロ環礁に入った。石炭は減る一方だが、27日には仮装巡洋艦『コルモラン』が、石炭船2隻を伴って合流してきた。
 ここで、『コルモラン』と仮装巡洋艦となった客船『プリンツ・アイテル・フリードリッヒ』は、石炭船『マルク』を伴ってオーストラリア方面に通商破壊作戦を行うこととされた。これもまた牽制の一環である。




SMS_Leipzig

ドイツ軽巡洋艦『ライプチヒ』

 1905年3月21日進水、3756トン、10.5センチ砲10門、23ノット
 戦争の直前、アメリカにおける撮影で、寄り添っているのは給炭船



 30日、艦隊はマジュロを離れる。この段階で残る石炭船は4隻、その搭載する石炭はおよそ1万7千トンだった。あとは各艦が積んでいるだけでしかない。なんら合戦などしなくても、二ヶ月で身動きが取れなくなる。
 この日、サモアの通信所からの音信が途絶えた。これはオーストラリアとニュー・ジーランドの艦隊が陸兵を伴ってこれを襲い、通信所を占領したためである。日本が参戦したことで、西側からの圧迫は強まる一方と予測された。チンタオがいつまで持ちこたえられるかわからないが、艦隊にはとうていその援助など考えられない。

 艦隊はさらに東へ向かい、9月6日にはハワイから戻った『ニュルンベルク』と合流する。翌日、艦隊はクリスマス島沖に投錨した。ここで、シュペー提督はサモアのアピアを襲撃するという重大な決断を行う。
 9月9日にクリスマス島を出発した装甲巡洋艦は、9月14日夜間にサモアへ接近するよう、速力を調整しながら進んでいく。『シャルンホルスト』は北から、『グナイゼナウ』は北東から、北向きに湾口を持つアピア港へと接近する。しかしアピアには軍艦がまったく存在せず、町にはまだドイツ人が多数残っていると推測されたため、攻撃は行われなかった。




Western_Pacific

サモアに至るまでのシュペー艦隊の足どり

 ヤップ島は8月12日に砲撃され、サモアは8月30日に占領された



 サモアを離れた艦隊はマルキーズへ直行せず、次の目標をフランス領タヒチに求める。
 9月21日、艦隊はタヒチの北西にあたるボラボラ島に入港し、載炭を開始する。このとき、艦隊はドイツ国旗を掲揚せず、司令長官旗のみを掲げていたため、当初島民はドイツ艦隊と思わず、味方と考えたようである。

 ボラボラ島を離れた艦隊は翌日未明、タヒチへ到着したものの、タヒチの守備兵はドイツ艦隊を明瞭に識別し、接近するやただちに砲火を持って出迎えた。艦隊は慎重に接近すると砲台への応射を始めたが、スコールもあって効果的な射撃はできず、大きな戦果も得られなかった。
 港内には捕獲されたドイツ船『ワルキューレ』が係留されており、近くにはフランスの旧式軍艦『ゼレー』の姿も見られた。艦隊は接近しながら『ゼレー』を砲撃するが、軍艦旗は掲げられていても反撃はない。この2隻はどちらも沈没した。

 これらの攻撃によって連合国側には、ドイツ艦隊がインドシナ方面へ戻ろうとしているのではないかという疑念が生まれ、その追跡の矛先を鈍らせる効果があった。敵側から見た場合、シュペー提督が、それまでの逃げ隠れするような行動を一変させ、防衛艦隊との遭遇を予想できるサモアやタヒチのような重要拠点への攻撃を企画したということは、ドイツ艦隊の中に何かが起きていると考えさせる効果があったのだ。
 あるいは燃料の枯渇かもしれない。あるいは重大な故障かもしれない。自暴自棄になり、死に場所を求めるように、攻撃するべき敵戦力を求めているのではないだろうか。一戦交えて名誉を確保すれば、傷ついた艦隊はチンタオへ戻ろうとするかもしれない。連合軍の防衛線は維持されなければならず、追跡艦隊の編成はさらに遅れた。




SMS_Dresden

ドイツ軽巡洋艦『ドレスデン』

 1907年10月5日進水、3664トン、10.5センチ砲10門、24ノット
 『エムデン』と同型だが、主機にタービンを採用している。燃費はさほどに悪くないものの、経済速力は他艦と異なる。



 タヒチを離れた艦隊は、続いてフランス領マルキーズ (マルケサス) 島へ向かう。艦隊は、26日朝になって同地へ到着し、ここで久方ぶりの休養を取るとともに交代で上陸までしている。この島は敵国であるフランスの領土だから、公有財産は正当に鹵獲でき、政庁にあったフランス通貨はことごとく没収され、島民から買い上げる物資の対価とされた。
 補給品を入手した艦隊は、さらに南東へと向かう。

 10月3日、艦隊は『ライプチヒ』が、大西洋にいるはずの『ドレスデン』と交信しているのを傍受した。距離は大きく、ただ、まだそれぞれが無事で、任務を果たしつつあると知れただけだったが。
 10月5日夜、『シャルンホルスト』は『ドレスデン』と直接交信に成功し、同艦が10月10日にはイースター島へ到着することが報じられた。『ライプチヒ』もまた、10月4日にペルー沿岸を離れ、イースター島へ向かっている。これら2隻のドイツ軽巡洋艦は、それぞれに石炭船を随伴しており、艦隊は燃料の枯渇をまたも先延ばしにできた。

 イースター島でドイツ遣外艦隊は、その大半が一堂に会することになった。若干旧式であるとはいえ、装甲巡洋艦2隻、軽巡洋艦3隻の艦隊は、イギリスが捜索に用いている戦闘単位の能力を上回っており、当座の燃料にも不安はなく、太平洋南東部という遠くヨーロッパを離れた地域では、容易に撃滅できないだけの戦力集中となった。




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